平野(野元) 美佐 教授

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*インタビュアー:T

T:今日はいろいろとお話をお伺いできたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

平野:よろしくお願いします。

T:まず研究内容からお伺いしたいのですけれども、今の研究のことを教えてください。

平野:今は子どもが小さいということもあり、沖縄の那覇を中心にフィールドワークをしていますが、まずはこれまで取り組んできたカメルーンの研究についてお話しさせてください。

私はカメルーンの首都ヤウンデに移住して暮らしている、バミレケという商業民に興味をもち、研究をしてきました。彼らは植民地期からカメルーンの諸都市やプランテーション地域に移住し、移住先で主に商売を営んできたために、カメルーンの「商売の民」とよばれています。バミレケの人びとは、実際に商人であるなしに関わらず、商人イメージをもたれています。つまり、どちらかというと他のエスニック・グループの人たちから好かれていなくて、ケチ、がめつい、裏がある、などと言われたりします。

彼らは故郷の村から都市に出てきて、同じ村の人達と同郷会を組織しています。バミレケの村は100以上ありますが、首都ヤウンデはバミレケがたくさんいますので、それぞれの村が同郷会をつくり、毎週活動をしています。私もある一つの村の同郷会のメンバーになり、そこの活動に参加しながら、彼らの相互扶助活動を調べました。例えば頼母子講やメンバーが関わる葬礼でのダンスなどです。その村の学生会にも参加して、故郷の村おこしのイベントに参加したり、サッカー大会などの応援もしました。

バミレケは、都市に暮らしていても葬礼参加などで頻繁に帰郷します。乗り合いバスで日帰りできるという近さもあります。それぞれの村には首長がいて首長制社会を築いているので、「伝統」社会と都市の人がどう関わっているのかという都市村落関係にも興味があり、村でもフィールドワークをしました。 

 
T:アフリカでの調査はいつ頃から開始されたのでしょうか?

平野:最初にカメルーンに行ったのは1993年でした。本当はその時、ナイジェリアに行く予定だったのですが、ヨーロッパまで来たときに政情不安で入れなくなってしまって。そのときは、カメルーンをフィールドにされていた日野舜也先生と一緒だったので、日野先生についてカメルーンに行くことにしたのです。私自身が積極的に選んだ調査地ではなかった訳ですが、今となっては日野先生やその偶然に感謝しています。

首都に到着して、普通はそこからフィールド探しに行くと思うのですが、私は都市がやりたかったのでヤウンデをそのままフィールドと決めてしまいました。

T:もともとフィールドワークをアフリカでやりたいと思ったきっかけはありますか?

平野:学部生のときは単なる旅行好きで、シルクロードに行ったり、シベリア鉄道にのって東ヨーロッパからイスラエルに行ったりと、あんまり人が観光に行かないところに旅行するのが趣味でした。その流れで、西アフリカにも旅行しました。色々な国を見たなかでも、アフリカの旅は強烈な印象を残しました。でもそのとき思ったのは、アフリカは旅しただけではわからない、住んでみたいということです。そこから、研究、フィールドワークとつながっていきました。

T:研究以外にもその強烈な印象のアフリカと関わる手段はそのときあったと思います、なぜ研究にたどりついたのでしょうか?

平野:なぜか、援助とかそういう方向は考えなかったですね。「アフリカをなんとかしたい」ではなく、「アフリカのことをよくわかりたい」という動機だったと思います。そして、アフリカのことをよく理解するためには、アフリカに長くいないとだめだ、と考えたのです。はじめ社会学を専攻しましたが、日野先生や和崎春日先生と出会って、やっぱり人類学かな、と思いました。

アフリカ人というと、自分とは全く異なる人としてみてしまいがちです。でも私は関東に住んでいたとき、埼玉に出稼ぎに来ていたナイジェリア人と知り合い、ナイジェリアに関心をもちました。彼らといろいろ話すうち、もちろん違いもあるのだけれど、共通する部分も多いと感じました。町工場で働き、節約して故郷に仕送りし、工場や近所の日本人といろいろな関係をつくってそれなりに生活を楽しんでいる彼らをみて、同時代を生きている「普通の」アフリカ人への関心がわきました。そして、世界のどこでも適応できる人間をどんどん世界に送り出すダイナミックな現代アフリカ都市こそ、おもしろいなと思ったんです。

T:なるほど、アフリカの人との共有の時間を通じてかたちになっていったのですね。平野さんが思うアフリカ研究の魅力とはなんですか?

平野:そうですね。アフリカ以外にもおもしろい場所はたくさんあると思いますが、日本においては、アフリカに関する情報がたぶん一番偏っていて、なおかつ少ないという状況がありますよね。でも、アフリカを研究し、フィールドワークをしていると、「事実は小説よりも奇なり」といいますか、想像もつかないことが毎日たくさんあります。さっきは、アフリカとの共通点は多いと言いましたが、やはり、人間や文化の多様性も感じます。人間のやることっておもしろいな、こんな考え方もあるんだな、と自分の先入観が壊れていきます。そして、貧困、内戦、エイズなどの悲惨なアフリカイメージは、文化の豊かさや人間の魅力に、いつのまにかとって代わられているんです。

アフリカ専攻の特徴について

T:平野さんは他大学院出身で他大学から転勤されて、ASAFASには最近着任(2012年4月)されたばかりですが、平野さんが思うアフリカ専攻の特徴についてお聞かせください。

平野:正直まだ来たばかりでわからないことが多いのですけれども、これまで外部者としてこの研究科をみてきた印象は、恵まれた環境で勉強やフィールドワークができるところだ、ということです。アフリカを専門にしている教官がこれほど集結している機関というのはなかなかないですから、研究面で手厚い指導をうけられるであろうことが一つ、フィールドに調査にいける環境がととのっているのが一つ、アフリカは私費でぱっと行けるところではないので。つまり、フィールドをやって論文を書くまでの環境が整っていますよね。それは、教官や先輩たちのこれまでの努力があってのものだと思います。私は、日野先生や和崎先生にいろいろご指導いただいたとはいえ、フィールド中は基本的に1人でしたので、京大隊の院生達が先生にあれこれ教えてもらい、隊の車に乗ってフィールドまで移動しているのを羨ましく思っていましたよ。フィールドが遠くて大変な場所だ、ということもあったでしょうが。

あと学生さんが仲良さそうだなと思います。アフリカ祭りなど協力してやっていますね。すごく本格的な料理が並んで、びっくりしました。

T:そうですね、イベントの時の団結力、連帯感はありますねアフリカ専攻。

学生に対する資質

平野:いろいろなことに関心をもてる人ですかね。フィールドだけ人格が変わるわけではないので、日本でも色んなことに関心をもって、人と関われる人がフィールドでもうまくやっていけるのかなと思います。フィールドワークは楽しくもあり苦しくもありますよね。基本的には自分が試されるようなところがあるので、そういうときに前向きにやっていける人でしょうか。あと、日野先生がおっしゃったことですが、「わからないことに耐えろ」ということです。つまり、早わかりしない、わからないことはわからないままに耐えろ、と。もしかしたら1年後、もしかしたら10年後にわかるかもしれない。フィールドワークをしても全てがわかるわけではないので、わからないことも多く残るのは普通だと思うのです。焦って答えをださない、粘り強さというものが求められるかも知れませんね。

T:今回のインタビューではフィールドの写真を見せてもらってお話いただくということをお願いしています。この写真は何年どこで撮られたものですか、頭にお金を張っているように見えますが、何をしているのでしょう? 

平野:98年、カメルーンのバミレケの村です。私は、頼母子講をはじめ、お金に焦点をあてて研究を続けてきました。今は、大阪と沖縄でも頼母子講の調査を始めているのですけれども。

この写真は、喪明けの儀礼(死者祭宴)のワンシーンです。喪明け儀礼では、多くのダンスグループを呼びます。遺族が同郷会に入っていれば、そのメンバーが全員かけつけ、ダンスグループとして踊ってくれます。ダンスが始まると、メンバーである遺族が椅子に座り、他の遺族が次々にそのおでこにお金をくっつけていきます。そのお金はその同郷会のものになります。いわば、同郷会のダンスに対する遺族からのお礼というわけです。これは何度も、あちこちのダンスの輪のなかで繰り返されるので、貼り付けるお金が問題になります。みんな数がほしいので、少額のお札、たとえば500セーファーフラン(100円弱)を多く用意しようとします。もちろん出せる人は、1000、2000、5000、10000フラン札まであるのですけど。また、ダンスの輪のなかにいる歌い手や楽器演奏者に対して、参加者がお金を貼りつけることもあります。このお金も同郷会の収入になります。個人的にあげたいときには、おでこではなく、その人の胸もとやポケットに忍ばせます。

現在はグローバル金融とかで、電子マネーが一瞬のうちに大量に取引されていて、貨幣がみえなくなっています。だからこそ、この喪明け儀礼のような、また頼母子講のような、人の手から手へわたるようなお金というのが、ますます重要になってきているんじゃないかなと思います。お金に飼い慣らされるのではなく、わずかであっても自分たちでお金を飼い慣らしていく。そういうのが頼母子講のおもしろさですね。お金を通して人と人がつながる、お金を軸にあつまって助けあう、その知恵はいいなと思いますよね。

T:写真について、平野さんの場合、見栄え良く高額を貼れとせがまれたりしなかったですか?

平野:私はあまり貼ることはなく、メンバーですので、ダンスをやるほうで、また写真やビデオを撮っていました。同郷会メンバーには、撮影した写真を最初は焼き増ししてあげていたのですけれども、大量だったので、メンバーから、「売りなさい」と言われました。迷いましたが、それが普通の感覚ならと、途中から売ることにしました。回収できないことも多かったですけど。でも、そういう風に言ってもらえて嬉しかったですね。

フィールドのおおきな変化

T:最初に訪れたときと最近おとずれた時のフィールドの変化についてお聞かせください。

平野:カメルーンは2006年を最後に行けていないのですが、最近ヤウンデにいってきた友人によると、生活がさらに厳しくなってきていると聞きました。私がフィールドワークをしていたころのヤウンデでは、カメルーン人のストリートチルドレンはほとんどみかけなかったのですが、そういう子どもたちも増えているそうです。政府による露天商などへの妨害、市場や「スラム」の解体なども進みつつあるそうです。このような流れはアフリカ各地で起こっていて、スラム・クリアランスをして、そのあとに近代的な高層ビルを建て、外国から資金を呼び込む、みたいな。ぎりぎりで生活している多くの庶民のことは考えられていないようです。アフリカの普通の人たちが時間をかけてつくってきた都市生活世界が、上から壊されていることはとても残念です。

研究の目指すとこ

T:今後平野さんの研究の今後の展望を聞けたら嬉しいです。

平野:世界の頼母子講の共同研究ができたらいいなと思いますね、各地の情報をもちよって、その共通性や違いを考えられたらおもしろいだろうなと。はじめから枠組みがあるわけではなくて、つくりあげていくような研究ですね。自分ひとりではできないことに挑戦していきたいですね。

また、研究になるかどうかはわかりませんが、私はこれまで、開発などにはかなり距離をとってきました。でも、自分で子どもを産んでみて、やはり子どもには幸せに生きていってほしいと思っています。同じように、アフリカの子どもたちも、育っていく過程で、人生に希望をもてるような環境になって欲しいと思います。子どもたちはじめ、人びとが生活を安心して営めるような、今が悪いとしたら、少しでもよくなる方法はどんなものがあるのか。アフリカが本来もっている力がどう働いているのか、どう発揮されずにいるのかなど、考えていきたいですね。

受験生にひとこと

T:アフリカのひとたちの生活が少しでもよくなるか、どういう形があるか、現地で学ぶことを通じて僕も考えていきたいと思っています。若い世代でもそういった学生がでてくるといいですね。それでは、今後アフリカ地域研究を目指す、若者に最後に一言お願いいたします。

平野:アフリカに興味があると言ったら、「変わり者」と周りから思われているでしょう。でも、ここに来ればそのようなマイノリティ状況から解放されます。お待ちしております。

T:今日は貴重なお話をおきかせてくださいましてありがとうございました。

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